甘くて苦い
あたりまえすぎて、考えたことなんてなかった。
「いまさらなぁ・・・どうしたもんかね」
困った声でそう呟く黒尾の声に、身動きが取れなくなった。
しゃがみこんだ体勢で、このまま小さくなれたらいいのにと膝を抱く手に力を込める。
だが、肩を縮めてみてもくっつけた膝の上に顔を伏せても苦心して息を殺しても研磨の体は小さくなったりしないし、もちろん消えてなくなりもしない。
そんなわかりきったことを確認して、気づかれないようにこのまま息を潜めていないと、と唇の裏側を噛んだ。
(オレは・・・俺は、何も聞いてない・・・俺はここにいない・・・)
胸のうちでそうくり返す。
研磨の意識は、そうして本人が唱える呪文によって実際にきれいに切り離されていく。
だからいつだって、自分の外側の世界は隔たるばかりだ。
それが怖いと思ったことなんてなかったのに。
*
「何でクロってカノジョ作んないの」
部活終わりに呼び出されてすぐに戻ってきた黒尾の手には、手作りと思われるお菓子の袋があった。
差し入れかと思っていたら、夜久の「ついに来たか~」というニヤついた一言で告白だったのだとわかった。
どうやら前から夜久は知っていたらしい。
黒尾も同じだったようで、からかいにも軽く肩を竦めてみせただけだった。
そういえばバレンタインが目の前だったっけ・・・とぼんやり考える。
研磨自身はそういった「リア充バクハツシロ」的なイベントごとには興味も関心もないし、自分に関係があるとも思っていないがゲームの世界では現実世界に追従するがごとくにイベントごとが起こるものなのだ。
つい先日オンラインのゲームでイベントクエストがあったばかりだからすぐにバレンタインという単語が浮かんだ、というわけだ。
おそらく中身はチョコレートだろうと思われる物体をスポーツバッグの奥底に放り込んだ黒尾と並んで帰途についた研磨はふと疑問に思ったことを口にした。
ちらりとこちらを見た黒尾は、夜久にしてみせたのと同じ仕草をした。
解読できないと眉をひそめると、
「好きなヤツいるのに他に彼女作るって、ひどくないか?」
おどけたような口調なのに、淡々としているせいで妙に重たく聞こえた。
言葉が耳に届いてから脳に到達するまでに僅かなタイムラグがあって、それから研磨はワケもなく息を呑んだ。
「だって・・・ずっと?」
「そう、ずっと」
黒尾は小さな頃からひょろひょろと長く、同年代の子供たちの中で頭一つ抜けていた。
だがその飄々とした性格のせいなのか、バレー馬鹿だからなのか(たぶんその両方なのだろうが)女の子にちやほやされていたわけではなかった。
それが変わったのは彼が高校に入ってからだ。
高身長は嫌でも目を引くし、バレーをしている時の顔は三割増しに見える。(というのは海の言葉だ)
突然周囲から騒がれるようになってさぞ面倒にしているだろうと思ったが、黒尾はあくまで飄々としていて彼女を作るよりバレーの方がよっぽど楽しい、と言っていた。
健全な男子高校生の発言とも思えなかったが、人付き合いさえまともにできない自分に言えた話でもないと口を噤んだものだ。
(――それ、なの、に・・・?)
一体、いつから。
どこにそんな素振りがあっただろう。
思い返してみてもそれらしい何かなど記憶の中にはなく、研磨は困惑しながらも不自然に乱れる鼓動をそっとシャツの上から押さえる。
奇妙に鳴り打つ心臓に自分に不整脈でもあったのかと訝る背中を、焦燥が這い上がってくる。
居てもたってもいられないような。
走って逃げだしたいような、どこからか何かに追いかけられるような。
そんな不安に、足元がぐらぐらする。
「・・・ま、研磨?」
何度か名前を呼ばれたらしい。
はっとなって顔を上げると、心配そうな顔でこちらを覗き込んでくる眼差しが突き刺さる。
「どうした? 腹でも痛いみたいな顔してんぞ?」
「・・・あ・・・うん、何か胃がぐるぐるするかも」
「お前何か食ったっけ?」
「お昼にお弁当」
「だよなぁ。腹減って胃酸出てるんじゃないのか? 早く帰るか」
表情を読まれたことにぎくりとして咄嗟に適当なごまかしが口をついて出た。
だが黒尾は気にした様子もなく、俺も腹減った、と研磨を急かす。
口ではそんなことを言いながら必要以上に早足にならない黒尾の些細な気遣い。
今まで、気にしたことなんてなかった。
当たり前みたいにそこにあった。
ちらりと視線を投げる先には黒尾がいる。
それが研磨にとって当然の景色だった。
そこには必ず黒尾がいて――その先に外の景色は広がっている。
そう、思っていた。
20150214