あすなろ
カフェオレのパックに手を伸ばした瞬間。
「あすなろ抱きって、こういうやつだろ」
どん、どぶつかるように背後から抱き締められて声が耳元に落ちてきた。
指先で突き倒したカフェオレのパックがころりと転がる。
(・・・はあ・・・?)
何事だ、と振り返るも、体育座りの研磨に覆いかぶさる黒尾が邪魔で背後が一切見えない。
研磨を覆い隠すように抱きついている黒尾も背後を見ているから、先の言葉は他の誰かに向けたものなのだろう。
部室で昼飯を食べていたのは、研磨と黒尾と夜久と、海。
示し合わせたわけではなく、何となくで集まったメンバーだからその場に深い意味はない。
真夜中までしていたゲームのせいで、眠くて仕方がなかったから研磨はただもくもくと昼食を口に押し込んでいた。
三年生三人が和気藹藹と話しこんでいる声は聞こえていたが、内容までは頭に入ってこなかった。
「壁ドンよりハードル高くないか? それ?」
「もはや無理難題だろう」
「壁ドンだと脅してる図になるだろ」
「それもそうだが、そっちだとしても襲ってる図になるだろう」
「どっちにしろ山本にはダメじゃん?」
ぎゅうぎゅう抱きついてくる黒尾に圧迫されて、夜久の声も海の言葉も遠い。
なのに、黒尾の声は振動となって伝わってくるせいで物理的な距離よりもさらに近かった。
「・・・なんの話・・・」
抱き潰されかねないと腕に手をかけると、うん? と頭上から顔を覗きこまれる。
「女の子がときめくシチュエーションってのを、山本に教えてやろうかって話」
「・・・これを?」
「そう、これを」
話しかけることすら困難な人間に、接触行為を教えて何になるだろう。
呆れ顔をすると、黒尾はにやっと人の悪い笑みを浮かべた。
「ときめかねぇか?」
「女の子じゃないからね」
「残念」
少しも残念そうではない口ぶりにはいはいと適当にあしらう。
話にかこつけて抱きつきたかっただけなんじゃないのか、と指摘したいのを堪えたのは人目があったからではなく。
事実その通りだ、と開き直られると困るからだ。
そういう馬鹿みたいな会話は、人に聞かせたいものではない。
「クロ、とれない」
抱きつかれた拍子に転がったカフェオレのパックは、抱きとめられているせいで届かない。
離せ、と遠回しに要求したつもりが悠々と片手を伸ばした黒尾にほい、と手渡されて空振りに終わる。
しっかと研磨を抱いた左腕は、まるでしがみつくみたいな強さだ。
仕方なく黒尾の腕の中でカフェオレのパックにストローを差し込む。
と。
「甘やかされ放題だな」
からかうような夜久の声がして、ちらりと視線を動かす。
黒尾が片腕を動かしたおかげで辛うじて向こう側の夜久が見えた。
「クロのせいだし」
自分がどうこうしたわけじゃない、と反論したつもりだったのだが、
「お宅の奥さん、ワガママッ子すぎるんじゃありませんか」
「いやぁ~・・・でもそこがまた」
自分のワガママ認定をされて、憮然と黙りこむよりない。
何を言っても無駄な気がしてカフェオレと一緒に文句を飲み込む。
そんな研磨の不機嫌を悟ってか、海がやんわりと口を挟んだ。
「いや、もういい加減離れたらどうなんだ」
「研磨が離れたくないっていうから」
言ってない。
一言も言ってない。
思ってもない。
「黒尾が甘やかしてるから研磨がどんどんワガママッ子になるだろ~」
「いいんだよ、それで」
「よくない!」
にやにや笑う黒尾と、何故かどんどんと機嫌を悪くしていく夜久と、すでに出来ることはないと素知らぬ顔をする海と。
のどかな昼休みは過ぎていく。
(甘やかしてるのは・・・俺だと思うんだけどね)
いまだ黒尾の腕の中で窮屈な思いをしながら、そんなことを思う。
誰にも言わない。誰も知らない。
本当は、俺が――クロを、甘やかしてるんだってこと。
誰も知らなくて、いいんだけどね。
ずるずる啜るカフェオレは甘ったるく。
肩にのしかかる黒尾の愛の重みを感じながら、研磨は深いため息をついた。
20150117